老け顔とネットの海

オタクのありのままを貴方に

思想と読書

 こんばんは。梅雨も終わりかなと思ったところで追い込みをかけてきました。耐えねばなりません。これから待ち受けるさらなる敵(暑さ)と戦うために。

 

 人間生きているうえで何も考えないということは何もないと思います。人生についてであったり、将来であったり、人間関係であったりと何かしら考えます。今回のテーマはそんな思想と読書について最近すごく実感したことがあるので書こうと思います。

 

 高校生、大学生くらいになると「病む」という現象に陥りやすくなります。基本的にこれくらいの年齢では自由度が増え、暇な時間が増えるからです。そんな暇なときにふと自分のことについて省みたりします。そこから沼にはまるのです。そんな経験を経て自らの人生観、人間観についてある程度固まると思います。私もそれなりに持っています。そこで私が考えていたのは自分は天才というわけではないのでこの考え方を思いついた人が過去に必ずいるということでした。そんなことを考えながらも時がたちました。そして最近私が考えていたことが書いてある書物に出会ったのです。一つはサルトル著の「嘔吐」、もう一つはショーペンハウエルの「孤独と人生」です。この年までサルトルショーペンハウエルも読んでこなかったという指摘は恥ずかしくなるのでやめてほしいです。内容については後日触れるとして、私は自分の考え方、感じ方が誰かによって明確に言語化され肯定されたことに安心感を覚えました。 

 私の今回のいわば保障された考えというのは

・他者と自分から関わらない。そして一人でいることが苦でない。

・俗世とのかかわりをやめたい。厭世観

・「楽しい」に対する共感性のなさ

これだけ見ると完全に社会不適合です。いや今の社会にはおそらく不適合です。不適合であること自体は覆らなかったのですがショーペンハウエル氏は幸福に生きるには自分の精神のなかで世界をどう考えるかに依存し、それに満足することで生まれる。と言っており他者からの影響はこれに比べて小さいとのことでした。そして自分のなかでモノを考え、満足する人間は他者との関りを避けるとのことでした。これが正しいと言えるかは私には答えられませんが、私はとても満足しました。

 上記のような考えができる人間を精神的貴族と表していました。とても気に入りました。

 

 自分は妥協でも諦めでもなく自分自身に満足しており、この現状で生き続けていければ良いと思っています。これが私の人生の歩み方です。自己の能力を受けいれ、根柢の考えは変わらないということを認めています。そのために欲求があまりないのだと思います。娯楽もアニメや読書で退屈はしません。それを他人に話さなくても自分で結論を出せば満足しますし。私には友人が少ないですがいます。こういう私ですので自分からはほとんど誘わないのですがこの人たちとはなぜ関わっていられるのかと考えて、それは昔からの間柄でありノリが完成されているので心地が良いのだろうというという結論に至りました。友人だけでなく恋人にも恵まれています。私も人間ですので虚無感に陥ることもあります。そんな中自分を必要としてくれる人がいるのは心が楽になるのです。これだけあれば他に必要なものも思い浮かばず自分を受け入れられます。金はなくては困りますが、別に多くても欲しいものがありません。金銭は手段ですし。先ほども言ったように現状を守って、読書やアニメ鑑賞ができれば良いのですから。自己の成長というのもその先が見えませんし、やはり現状で構いません。そういうわけで人と話して何かを得たいとも思っていません。むしろ人間の欲深さに呆れて嫌になってしまいます。自分が満足しているので他人の動向にそれほど注目しませんし、悪口を聞かされても人が嫌になるだけです。

 

 結論としては哲学の天才でないなら自分の中で考えたことを誰かが表現してくれていると思います。そういった本を読んだり、他人と話したりすることで安心感を得ることができ人生前向きになるはずです。

 

 以上です。