老け顔とネットの海

オタクのありのままを貴方に

「自分らしく生きよう」に従えるか

 こんばんは。暑さが少しずつ和らいでるような気がします。まだまだクーラーが手放せませんが。

 

 今回は表題の通りよく見る文句について考えました。私がこれから述べるのは自分らしさとはなにかという哲学問題ではなく広告、標語でよく言われる文句の「自分らしく」についてです。自分らしく生きるというのは非常に心地よい言葉です。多くの人間がそんな生き方をしたいと考えているかと思います。スタイリッシュで美しい広告、しんみりとした感動させる広告、成功して輝いている人間の言葉によって語られるそれは多くの心を動かしているのでしょう。それを励みに何かを初めて幸福な人間が多くいると思われます。しかし、私はこんなに簡単に自分らしく生きることができるのかと疑問に思います。

 

 少し話が遠回りになりますが私は人間らしさというのは大学生くらいで発揮されるのではないかと考えています。よく言う「大学生らしい生活」というのはサークルで仲間たちと遊んだり、飲酒によって羽目を外したりといった遊興の充実にあるんだと思います。(もちろんこれは一般的な大学生像であり、学問探究に興じている学生諸氏には反感を買うかもしれません。一般論として聞いてください)。これらの大学生らしさというのは大学生という肩書によって生まれます。以上に挙げた「大学生らしい」というのは実際のところ時間と暇さえあればできることです。ただ年齢を重ねるごとに社会ではこういうことをしているのは恥ずかしい行為だとみなされます。しかし大学生というのは過去学生であった人間の保証の積み重ねによってこれらの行為が許容されバラ色のキャンパスライフなどと形容される憧れの場所になるのです。

 私は大学は教育機関であるから勉強をするべきだという単純な批判を行いたくはあり

ません。社会構造の一つとしての大学は多くの人間にとって幸福である高収入や社会的地位を得る方法として非常に易しいものとなっています。そのため勉学が苦手でも成功はしたい人間にとって大学は必要なものおなっており、先ほどの批判を学生にするのは少し的外れだと思います。

 そしてこの大学生という身分はそれほどの責任感もなく、自由で、なにより保証されているという点で人間らしさを発揮します。酒、異性交遊、ギャンブル…これらの入口となるのが学生であり、その先の幸福というのもこれらにつながります(あくまで一般的な)。地位名誉に関しては大学生に限った話ではありませんが。

 

 そして本題に入るのですが、「自分らしく生きよう」というのには責任と社会に立ち向かわなければいけません。多くの人間が会社に勤め、上司や客に頭を媚を売り疲弊しています。例えば会社を辞めて違う職業に就いたとしても、客から逃れられはしません。また、趣味に時間を費やすとしても会社では自分らしさを失っているのではないかと思います。自分らしさというのは十人十色です。彼らが言っている自分らしさには名誉欲を満たすことや、色欲を満たすことが適用されている場合が少ないです。ただ自分の意見を言おう、人の目を気にしない程度のことを人生の標語として述べているのです。あまりに自分らしさの範囲がいい加減です。

 

 結論としては、彼らの言う自分らしさは無味無臭なものであり妥協の産物だということです。

 

 以上、ありがとうございました。

所詮の正義

 こんばんは。お盆休みにも終わりが見え、この世に未練のない方がキュウリに乗って帰っていっているようです。もうすぐなすびの群れも見れるでしょう。

 

 今回もまた思い付きの話をつらつらと述べていこうと思います。私は何度か自己の幸福の在り方について述べています。私の中での幸福については変わっていないのですがふとこの考え方について思ったことがありました。私は家族関係、能力、人間関係にそれなりに恵まれているためにこのような幸福感覚を得たというのは間違っていませんし、他者の幸福も各々の環境等に左右されるでしょう。自分が高潔だと思っている人間ほど通俗的なものを馬鹿にし、哲学者の言葉を引用して正義を語っています。これが高等であるなどという概念自体が人間に仇をなしているのではないかと考えていました。そういった点ではショーペンハウアーの幸福論には賛成できますが、彼の優劣をつける所はよく思いません。

 困窮の時代を過ごした過去があり、現在ある程度成功を収めた人間に私のような苦労知らずの幸福論が刺さる訳がありません。また、いまだ成功を収めていない人間にも刺さらないでしょう。これらの事実が理解できているのにも関わらず私の中では中途半端な正義心が蠢いています。自分の幸福論では必要ないはずの他人の不幸を聞くたびに心を痛め、恵まれている自分が不幸になることを望みます。これは正義ではなく所詮、同情心であることはもちろんであり、他人の苦しみが自己の心を揺さぶるのでなくしたいという利己の塊でもあります。何か今行動を起こすという気概がないのは自分の平静へのこだわりと、すべての不幸がなくせないという諦めからきており、どの道すっきりする問題ではありません。私が現在取り組んでいる科学も、将来取り組みたい文学も自己の満足には役に立ちますが真の心の平静を助ける不幸の消滅には至りません。そういうことを最近考えて、何が最適なのかをぼんやりと思っています。

 

以上、ありがとうございました。

 

決定論者と人間シミュレーター

 こんばんは。近頃は豪雨にコロナと災害が続いています。私にできることといえば手を洗うことです。雨に関してはどうしようもありません。情報を手に入れ避難するくらいです。

 

 さて今回は随分小説っぽいタイトルとなっていますが私の思い付きを書いていこうと思います。まず、私が決定論について肯定的であるということから始まります。ここで述べる決定論は宗教的な神によって人生が決められているといったようなことではなくラプラスの悪魔のような発想になっています。私が生まれてから辿る道筋は遺伝子、環境によって決まるということです。よく勉強ができることに対してこのような言説を耳にしますがそれも一種なのでしょう。親の育った環境、そしてそこから生じる親の育児法に影響を与えその影響を与えた親の親にも土壌があって。友人の場合もそうです。すべてがひとつなぎになって私を形成しているという話です。そしてその源流となるのが「神」です(スピノザ的な)。こういうことを考えていると多くのSFでネタになっているであろう人間の生き方のシミュレーションについて考えてしましました。多くは最初から設定されている生き方にどこか疑問を持ち人間としての自由を取り戻すというような話になっているかと思います(ほかにもあると思いますが勉強不足です)。人と触れ合う数が多くなればなるほど計算しなければならない因子が増えそうなので、AIに人を育てさせて接触を防いだら性格の操作ができるのかと思ってみました。どこかのグループが動物実験してそうですよね。倫理の壁に守られている我々は人としてのギリギリでとどまっていられそうですがこの先のことは分かりません。

 

量子物理学的な確率論を適用したら私の決定論的言説は吹き飛びそうですが、量子力学は想像しづらいので私はSFを楽しむことにしました。私が生きているうちに神に届くことはないでしょうし、自分が満足すればよしです。

 

それではまた

 

この人を見るな

 お久しぶりです。随分と間が開いてしまいました。私が留守にしている間に梅雨入りとのことです。嫌な時期です。

 

 さて久しぶりに何を書くのかというと私の就活に関してです。結論から言いますと何も得られませんでした。私のこれからとあわせて記述したいと思います。

 就職活動を去年の12月ごろからひっそりと始めていた私はどうにもしっくりくる企業が見当たりませんでした。どの企業の説明会をきいても楽しそうだと思えませんでした。就活をしていくにつれてモチベーションが下がっていき、ついぞ三月を迎えてしまいました。社交性がない人間の書くESなぞ薄っぺらい内容にしかならないので通ったとしてもあまり好感触ではありません。私は会社が求めているような人間でないことは知っているので面接で落とされても全く心が痛みませんでした。必要とされているとは思いません、ただ自己の肯定を大切にしているので他人の評価であまり苦しむことがないのです。そんな感じで6月までだらだらと過ごしていました。

 就活中胸に抱いていたのは進学の意思でした。先述の通り、会社の良さが全く分からなかった私は進学について考えるようになりました。今までの自分は浅くそれなりに広い知識を持っていましたが、どこか尖った知識が欲しいと考えていました。また、進学による経験が今後、私の文学に役に立つのではないかと思いました。幸いにも教授から進学を勧められているので、喜んで迎え入れてもらえると思います。教授曰く私の成長のためとのことですが、私は進学で成長はしないと思います。私は自分の幸福を知っており、それは偉大な研究成果を発表することでもスキルを得ることでもないのです。私の精神的建築物の建造にいそいそと取り組み、独りでに満足することです。

 

 そういうわけで私は進学をしようと思います。ありふれた就活体験記ですがお許しください。

自己消失

  お久しぶりです。いよいよ就活解禁間近です。恐ろしいです。

 

 本日は少し迷っていることを書いていきたいと思います。私は自分で考えてきたことが本に書いてあり、それで言語化の術を見つけより自己を固めていたと思っていました。色々と自分で調べながら本を読んでいたので自分になじむものをたくさん読みました。その中で私も思っていたことでしたがショーペンハウアー氏の「読書について」で述べてあるのことで「多読家は自分の考えがなくなり自己を失う」というものです。 

 私個人先に言っていたような経緯で本を読み進めています。しかし先人の言葉に頼りすぎると私の細部の違いが失われてしまう気がしてなりません。そのため哲学を読むのをそろそろやめようかと思います。現在ニーチェを読んでいますがそれで終わりです。小説は読んでいくと思いますが。

 これは私の考えになるのですが哲学は自分なりの自己がぼんやり見えてきた大学生くらいに学ぶのがベストな気がします。一回書いたかもしれないですが。哲学を単純な知識の吸収として終わらすのは本質とはずれている気がしますし、哲学書を読んで自分のことを考えなおすものだと思いますから。私は哲学専攻な訳ではありませんし、本格的に学んだわけではないので話半分でお願いします。

 

 そろそろ読んだ本の記録を書かなければいけませんね。それでは。

 

社会不適合の種

 こんばんは。もうすぐ2020年がひと月経ちます。新年の抱負などを掲げた方は守り続けられているでしょうか。私は抱負などは持たないので大丈夫ですが。

 

 今回、自分が社会不適合者であることを知っていましたが世の中には多くの人が社会不適合者を名乗っています。なぜ社会不適合性が生まれてしまうのか考えてみます。

 

 まず、私のような他人に興味が持てないタイプです。このようなタイプは自分の世界に満足しています。そのため他人との会話を別にする必要がなくコミュニケーションの重要性がいまいちピンときません。全員がそうだとは言いませんがそのためにコミュ障であると思い込んで悩んでしまうということになる場合があります。私が今回言っている社会というのはおおよそ「働く」ということにスポットを当てています。働く際、人が人のためにモノを提供します。相手が人である以上接触は避けられません。私は事務的な会話はこなせるのですが、それ以外の話になると相手を特別知りたいと思わないので自分から何も言い出せません。そういう人間が好意を持たれるのは相手がよく話すタイプで丁寧に言葉を返す以外ありません。そして、興味のない相手との付き合いは疲労を伴います。そうして社会で生きるのがきつく感じるのしょう。

 社会不適合者で検索してみると

・協調性がない

・基本的ルールが守れない

・自分の事しか考えていない

というのが挙げられました。上二つの理由は自分の事しか考えていないということから生じているのだと思います。つまり他人が不快になろうと自分がよければそれでいいというタイプです。私のような自分の世界を大事にしているからではないかと考え付きました。しかし、私との違いは他人のことをないがしろにしていることです。

 ないがしろにする理由はなんでしょうか。これは私と違って現状を維持しないからでえはないかと思いました。私は現状の自分の世界に満足しておりそれを維持することが大事と考えています。そのため他人を刺激しないようにルールを守ったり、見かけ上相手にあわせます。こういう意識が存在しないので自分を優先することで他人と亀裂が生まれるのです。自己中心の在り方はいつか話したと思います。

 コミュ障というのも挙げられますが、匿名性のサイトを使わせたら問題なく使えると思うので人の評価を気にしているだけです。別にどうも思いません。

 

 社会になじむのしんどいねというお話でした。

 

厄年戦線

 お久しぶりです。そして新年明けましておめでとうございます。一月中に言えたのでセーフです。

 

 さて今回は書くこともないのですが厄年ということで何らかの不幸が訪れることを想定して行動していきます。第一の壁として立ちはだかるのは就職活動です。少しだけ今始めているのですが何だか社会に溶け込めなさそうで恐ろしいです。就職を失敗した場合は博士課程後期へ進学するのですが研究者として生きるにもそんなに熱意がないという始末。早く小説を書かなければと思うのですが本屋に入ると世の中の本の多さに驚いてしまい自信を失います。いろんな小説を読んでいるのも自信の喪失につながります。表現とは非常に奥深いものです。フォークナーの小説を読んでいるのですが書こうと思っても書けません。諦めるつもりはないのですが時間がかかりそうです。

 

 将来のことは考えてもどうにもならないことは知っているのであまり深入りはしないたちですので鬱には決してなっていませんが、先は険しそうです。

 

以上にしておきます。ありがとうございました。